認知心理学 15実生活との接点

(あらすじ)
認知心理学とは「人間がどのような情報処理を行っているか」を解き明かす基礎的な研究を行っている学問である。
現実の問題に対処することが直接の目的ではないが、人間の情報処理の仕組みがわかれば現実の問題にもっとうまく対処できるようになれる。日常生活で行き当たった問題にどのように対処していくか。その例として「外国語副作用」を取り上げる。
 
高野教授の体験。
アメリカに留学した際に、なかなか議論をすることが難しくて自分は頭が悪くなったのではと思った。
ある日、「注意」のゼミ(ナイサー教授)でリソースについて学び、これだと思った。
 
そこで実験をして、外国語で考える事がどのくらい思考力に影響をするかを計った。
 
「ライオンは魚ですか?YES/NO」のようなごく簡単な問題を①母国語②外国語で出し、同時に簡単な足し算をしてもらいます。
どの位間違うかを計ってみると、計算のみした場合に比べて母国語で問題を出した場合20%、外国語で問題を出した場合は30%も間違いが増えていました。このことから、外国語を理解することに精神力をとられる事が検証できた。
 
また、日本人ー英語の場合は低下が認められたが、ドイツ人ー英語の場合はほとんど差が出なかった。これは言語体系が近いため処理能力をそれほど消費しないためと考えられる。このことを検証するため、日本語と近い韓国語で実験したところ勝利能力の低下はほとんどなかった。
 
タコトの日本語を話す外国人をみると、この人は自分より劣るのではないかという思いがよぎる人は少なくない。同様に英語話者が日本人と英語で会話すると日本人はバカなのかな?と思われてしまう事がある。
 
国際間でプロジェクトを進めるとき、このことがおおいに問題となる事がある。英語を使う事による処理能力の低下を補うには通訳を入れる事が効果的である。通訳は自分より外国語ができないものでもかまわない。日本語で情報を処理することで、契約の細部にまで気を配る事ができるようになる。しかし日本人エリートの中では通訳を付けない事がステータスとして確立しているので、通訳をすすめてもプライドが許さない事がよくある。これを防ぐには、規則で通訳をつけてしまえばいい。規則があればそれに従う心理的ハードルはひくくなる。
 
(感想)
「人間がどのような情報処理を行っているか」を解き明かす。
第一回で行ってましたもんね。思い出しました。
何かをしようとすると、その分処理能力を消費する。
先日行った車の免許更新でもこの話の講義があって、車の中で電話をしたり食事をするとその分注意力を奪われて事故になりやすいと言う事でした。
私自身の経験からも、忙しい時に同時に複数の仕事がやってきて、一つづつこなした時より遅くなった事があります。
処理能力を消費しきるまでは同時並行ですすめられるのですが、あるラインー処理能力を使い切ってさらにタスクを割り振るととたんに効率が悪くなるメカニズムが現れていたのだなと思います。
 
それにしても、最後に出て来た国際社会でちょっとバカなんじゃない?と思われているかもしれない件、こわいですね!
プライドを傷つけないように現状をよくする策を練る、というのも実践的で面白かったです。
 
最後にこの授業でつかわれた写真は高野教授が若い頃留学した時に撮った写真だったそうです。そういわれて見るともう一度見てみたくなりますね。
 
ありがとうございました!
 
 
 
 

心理カウンセリング序説(5)クライアントとセラピストの「かかわり」

 
 
第5回は車を運転しながら聴いていました。なのでぎゅっと特徴的なエピソードが残っています。
 
Aくんはラグビー部にスカウトされたほどの大柄でがっしりした体格と、それに似合わない自信のない、ちいさな声の持ち主でした。このままでは苦労するぞと先輩に心配され、カウンセリングにやってきました。
 
 お母さんのすすめでピアノをはじめて感じに弾けるようになり、将来はピアニストだと夢をもっていたのに、「そんな現実的でない夢なんてダメだ」と父親に全否定されます。またあるときは学校の課題で数日かけて彫刻をしたら賞をもらえて自分には彫刻が向いているーとうれしくなったのにこれもまた全否定。
 
 そのお母さんがある日自殺してしまいます。のこされたのは厳しい父と男兄弟。父は非常に力の強い人で首根っこを掴まれると、ああもうだめだ、かなわない、と諦めるようになってしまった。お母さんの自殺も受けとめられず、現実と自分が乖離している感覚がもうずっと続いている・・・という事でした。
 
 ピアノと彫刻が大好きだったけど、「現実的ではない」と否定され、その後ショッキングな出来事が続いて、自分と現実が離ればなれになってしまった・・・というA君にいつのまにか自分自身のトラウマを重ねていました。
 
 そのA君がカウンセリングを重ねるにしたがって、次第に自分自身を取り戻して行くので、なんだか自分自身もするりと痛みが脱げたような感じがして、以来、気持ちがすこし軽くなったような実感があります。
 
心って不思議ですね。
 
 Aくんのカウンセリングは朝一番の誰もいない静かな時間に行われました。二人だけの安心できる「器」の中で少しずつ自分を見つめていったわけです。ある日たまたま早くでてきた男性職員に「おはよう」と声をかけられます。その直後のカウンセリングでは、数ヶ月かけてようやく自信がもててきたのに、まったく初回同様弱々しく、帰ってから自分と現実が離ればなれになる感覚がより強くなり、日常生活も困難なほどになってしまいます。
 その後のカウンセリングで「もしかして、男性職員に声をかけられたから?」との語りかけに「そうかもしれません」と答え、そこから父親とのかかわりが語られていきます。語り終わったとき、自分と現実が自然に一致し、その後、離人感に悩まされる事はなくなり、自信のある日常をとりもどしていきます。
 
語るー聴くー受けとめる。
器と、その破壊。そこからの再生と
カウンセリングの道筋が語られた回でした。
 
教科書では構造とそのほころびとして書かれています。
 
面白いのが遅刻をやめられないクライアントの話。
実家にいたときに、だんだん大人になって母親に甘えられなくなっていく。
でも寝坊をして怒られながら起きる時、母親の関心を引きつけることができていた。
だから遅刻をやめられないし、セラピストに対しても現れるというケースでした。
 
このクライアントは対人関係に緊張や不安があったのですが
カウンセリングの中でその構造に目を向けることができるようになったとき
自然に緊張感がやわらぎ、遅刻もしなくなっていったそうです。
 
情緒的アヴェイラビリティ
という言い方をしていました。赤ちゃんに対して大人がまるで言葉が通じるかのように語りかける。
今すぐには分からなくても、その積み重ねが言葉の発達をうながして、自分の心身の状態に名前がついていく。
そのように、今直ぐに明確な反応がなくても、すこしずつの積み重ねで反応をとらえていく。
いつでも情緒的に応じる準備態勢にあるんだよ、という状態の事をいうそうです。
 
オーセンシティ
自分の言葉や要求をわきによせて、クライアントの心にいどむ姿勢。自分自身を総動員してクライアントの心に限りなく近づこうとする姿勢。
 
こうした相互交流がもたらすものについて、かたられていました。
 
 
 
 
 

心理カウンセリング序説(4)出会いと見立て

4回目の先生はまさにカウンセラーという、やさしい感じの女の人でした。
事例では親につれてこられた19才の女の子が、「カウンセリングが必要なのは母ですから」と
背中を向けのですが、そこで「いまはそっとしておきたい気分なんですね」と問いかけると
これまで何の反応も示さなかったクライアントが小さくこくんとうなずいた・・・というシーンがあります。
 
その語りのあまりのやわらかさに、何かほろりとしてしまいました。
 
今回のテーマは出会いと見立てという事です。
まずはどのようにしてクライアントがカウンセラーのところへやってくるのか。
誰かの紹介でやってくる人は安心するかもしれないけれど、秘密が守られるか不安になるかもしれない。
ネットを見てくる人もありますし、本や講演でその人を知ってやってくる場合もあります。
まな板の鯉よろしく何でも受け入れられるかも知れないけれど、カウンセラーに過度の期待をしているこかもしれない。
ともかく、どんな経緯でやってきたかを良く知り、出会いの前にどれだけ心を砕いて準備するかが大切だということでした。
 
そうして出会ったクライアントがどんな悩みを抱えているか、それはどんな構造の中で起きているかの仮説をたてていきます。このクライアントの悩みを自分が引き受けられるかどうかを判断します。自分には難しそうな場合は、なるべく早く他の関係機関に依頼をします。
 
見立てについて大まかな判断の基準です。
 
①苦しいながらも、内的な葛藤・不安を自分の中に抱え、現実逃避の著しい低下も認められず、自分で来談することも可能な神経症水準。
②激しい常道をめぐるコントロールがうまくいかず、場合によっては自傷行為も認められ、クライアント自身も周囲も現実生活をこのまま続けるのがかなり困難な状態にあるボーダーライン水準(境界例水準ともいう)
③現実感を完全に失って、幻覚や妄想に心が奪われている精神病水準。
④器質的な理由による発達ないし知的能力の障がい。
 
①とか②でも十分しんどいのに、③や④もありうるのか・・・
 
こうした悩みを抱えたクライアントに対して、どのくらいコンタクトをもてるか、言葉だけではなく、心と心の響き合いをどのくらい持てるかということも「見立て」における重要なポイント、なのだそうです。
 
理論の上に立っているように見えるのですが、ラジオを聴いているととらえどころのない世界をふわふわとんでいる魔法使いのように聞こえてきます。不思議!
 
そしてこちらが「見立て」ているとき相手もまたこちらを「見立て」いる、自分の事をわかってくれるだろうか、秘密は守られるだろうか、信頼に値するだうかと見返されているわけです。
 
その「見立て」に双方納得いって、ようやく「契約」となります。どんな形で面接をするか、どんな目標をもつかをきめていきます。
 
面白いのが、森先生がいつも最初に伝えるという2つのルールです。
 
①「自由に思い浮かんだ事を話してください」
②「けれども思った事は行動にうつさないでください」
 
たとえば、今日はもう帰りたいとか、今すぐ死んでしまいたい、とか
何でも思ったように話してもらうけれど、そのことを行動に移さないという約束です。
 
これが衝撃だったのは、私自身が
 
言った事とやった事を一致しているほうがカッコいい
言った事をやらないなんてカッコわるい
 
こんな価値観を持っていることに気がついてしまったことです。
確かに深く悩んで、死んでしまいたいと思ったときに、その事を誰にも相談できなかったのは
そういう倫理観が私をしばっていたんだなぁと思いました。
 
後半、B君の事例では、ガチムチの体なのに自信がなくて小さい声で・・・人を傷つけたくない
けれどラグビーが大好きで、自分の中の衝動と向かい合うのが怖いということでした。
 
カウンセリングの技術を学ぶための授業ですが、辛く苦しい状態から抜け出していく物語を聴くうちに自分自身も癒されていくような感覚を覚えています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

心理カウンセリング序説(3)カウンセリングの「器」

カウンセリングの「器」
 
三回目は、テキストの著者、香川克先生と主任講師の大場登先生の対談でした。
前回の授業で安心安全場で,秘密が守られるという信頼関係が築けてはじめてカウンセリングが始まるという話がありました。
器の話で面白かったのが、最近の学生たちは自由とは安全な範囲の中で得られるものだと思っているということ。
最近の学生はずいぶん窮屈ですねと語られていました。鳥かごの中の自由というやつですね。切ないなぁ。
 
器には様々なバリエーションがあります。
事例として、スクールカウンセリングの現場で子ども達と鬼ごっこをすることが「器」になることが語られていました。
どの位追っかけるのか、どの位おっかけられるのかというゲームの中での一瞬の関わり。それがもっとも関係性が築けた「器」であったといいます。
 
週一回、一時間の関わりの中で、自分を見つめて行く度に、自分自身が治癒していくだけではなく、周りの家族や仕事の関係性までも治癒していくというエピソードが興味深かったです。
 
テキストの中でカウンセリングに料金を支払う事で、安心・安全の場への入場料を支払ったと意識が変化し、カウンセリングの質が変わるという例がありました。日常から離れた特殊な<面接の場>であるという意識が、自由な内面への旅を可能にするという事でした。
 
そう考えると、「自由」とは自分自身を思うがままに発露し、なおかつ他者に受けとめてもらえる範囲という事になるのでしょうか。だとすると心の強さや柔らかさがその人の自由の範囲を規定していて、傷ついた人にはまず安全な暖かい場所を、回復にしたがってだんだん外へ外へと広げて行く・・・というイメージを持ちました。
 
クライエントが自由に心の世界を旅するのに必要なものはなにかという考え方からは、必ずしも静かな部屋や決まった時間がいるという訳ではなく、それに必要な「器」をその都度ともに作り上げていく意識が必要なんだよ、という事でした。
 
 

心理カウンセリング序説(2)のテーマはクライアントと「語る」ことでした。

前回の授業で、他者によって「受け止められた」と心身で感じられたときに
その関係性の中から不思議にも変容のプロセス・自己治癒のプロセスが動き出す
「聴く」ことの役割について学びました。
 
今回のテーマは「語る」ことです。
 
最初の例はコップから水を飲めなくなったクライエントの事例です。
フロイトの患者であったこの方は、自分がなぜそうなったのか不思議でした。
 
ある日、あまり好きではないイギリス人話し相手女性(そんな職業があるなんてビックリです!)の飼っている大きな犬がコップから水を飲むのを見て気持ち悪くなった、という話をしたとたんに、するりと水が飲めるようになったのでした。
 
「語る」ことと「聴く」ことがセットになった時、自己治癒のプロセスが働きはじめる・・・人間って面白いですね。
 
ところが、私達の生きている現代社会は相当に語る事に制限があります。
私自身の悩みの種も、お金や生活、人間関係、恥ずかしいこと、ずるい事、家族の事が大半です。
この事について自由に語れる場がなかなかないので、普段は誰にも話さず心の内にしまってあります。
 
元気な事、健康な事については歓迎されやすいですが、影についてこれほどおおっぴらに語る事は難しいと感じています。
 
「話し」「聴く」ことで、自己治癒のプロセスが働きはじめるのが人の心に仕組みだとすると
影の体験については、なかなか解消されることなく、澱のように溜まりやすいということになります。
 
カウンセリングの技術として、ここではどんな事を語っても大丈夫、
受け止めるし、秘密を守るという約束をするのですが、
それが本当に実行されるか、クライアントが見ている時期があります。
 
私も以前、社内の悩み事を会社のカウンセラーに話すには、抵抗があった事を思い出しました。
それでも他愛もない事や仕事と関係のない悩みを話すことで少し楽になった時間でした。
 
フロイトの患者さんで、10年間ずっと通い続けて世間話ばかりしていた方が
ある日「やっと話せる準備ができました」と語りはじめた事があったそうです。
 
「話す」ことだけではなく書く事や作る事でもカタルシスを得る事ができます。
フロイトは自分自身の事をずっと手紙で告白し続けたそうです。
ユングは石工職人に弟子入りして、自分で思うがままの家を建て続けました。
 
おそらく、深いトラウマを得た人が音楽や漫画に没頭するのも
表現することと、受け入れてくれる人と出会うことで、
本能的に自己変容・自己治癒のプロセスをキックしているのだと思いました。
 
ユングの石の家です。
50代になってから、職人に弟子入りしてここまでのモノを作れるようになるなんて、これはこれでいい話ですよね^^
 
 

心理カウンセリング序説(1)セラピストと「聴く」ことー「受け止める」こと

放送大学の心理カウンセリング序説を聞いています。
震災の調査に携わった関係で悲惨な目にあった人に沢山あいました。
 
その中には、悲惨な目にあいながらも受け止められる人がいました。
どうやってこの人達は辛い出来事を人生の肥やしにしたんだろう。
 
何か一定の法則があるように思える。
 
その方法が分かれば、辛いまま抱えている人達の役に立てる。
何より自分自身も重荷になっている出来事を軽くしたい。
 
そう思っています。
 
さて、第一回はセラピストと「聴く」ことー「受け止める」ことです。
 
人はなぜか「聴く」ことー「受け止める」事で自己治癒のプロセスが動き出すのだそうです。
それがなぜか・・・は謎です。この本でも「不思議と」としか語られていませんが
ともかく、他者によって「受け止められた」と心身で感じられたときに
その関係性の中から不思議にも変容のプロセス・自己治癒のプロセスが動き出すのだそうです。
 
震災後の統計でもこのことはでていて、
阪神大震災から20年後のアンケートで震災の事を語った人と、語れなかった人で
明らかに心の健康状態に差がでていました。
 
だから、「聴く」
 
でも、この「聴く」が難しい。
悩んでいる人の話を聴き始めると、延々とループしたり、
とんでもない事を言ったり、いらいらする事を言ったりします。
そんな時に、適当なところで話を「切り上げて」しまうのが人間の本能だといいます。
 
わかるなぁ・・・
 
それを何とか「聴いて」本人すらも逃げたくなる事柄と
共に正面から「見つめて」いくのがカウンセラーの役割だといいます。
 
こ、こ、これは難しい!!!
 
例えば世間体の悪い悩みがあって、でもそれを言いたくなくて相談を始めたはいいけれど
グズグズしながらループして・・・なんて事はありそうですよね。
本人も自分では認めたくないから中々言い出せない・・・
だけどその問題と向き合わないとまた繰り返してしまう。
 
話を聴いて受け止めてもらえると、自分自身で問題を見る勇気が少しわいてくる。
少しずつ問題を見つめる事ができるようになると、どうしたらいいか考える事ができてくる。
考える事ができると、少しずつ行動できるようになってくる・・・。
 
問題はその事を話せる相手がいるかどうか。
 
人の心には、確実に現在の世の中で否定されている事が存在しています。
 
公序良俗に反する事や,暴力や破壊、父と母、性とエロス、誕生、生老病死
嫉妬、甘え、汚れ、葛藤、残虐性、家系、マイノリティ、強さ・弱さ、その他、無数
 
言ってはいけない、やってはいけない、知られてはいけない
格好悪い、世間体の悪い事が存在しています。
 
問題の本質がそこにあるとしたら、見なければ解決しません。
でも、それはいけない事だと思い込んでいたら、どうでしょう。
 
私にも悩みを話せなかった事がありました。
相談に乗るよと言ってくれた人を前にして、
悩みの内容を他に言われてしまうのではないかと不安になって話せませんでした。
その悩みはずっと長く続きました。
 
なので、一つの話を聴く装置として、安心できる場所と時間、
秘密を守り、決して否定せず、受け止めてくれる約束が必要なのだと思いました。
 
話を聴き、クライエントの悩みを受け止め、扱いの難しい事象を見つめて
自己治癒のプロセスを発動させることを、この授業では「産婆」に例えていました。
ひとりで生むのは難しいけれど、産婆さんの助けがあれば、安心していきむことができる。
セラピストにできるのは励ましたり、処置をすることであって生むのはクライエント自身であるという事でした。
 
カウンセラーの「聴く」について、少し腑におちた回でした。